LOGINエステルは辺境の開拓村出身の15歳の娘。燃え盛る炎のような鮮烈な赤い髪と、清らかな|水面《みなも》のように透き通った蒼い瞳を持つ、神秘的な美少女だ。
だが、口を開けばその印象はガラリと変わる。彼女は幼少の頃から棒切れを剣にして振り回し、村の同年代の男の子たちを子分に従えるようなお転婆な娘だった。そして年頃の娘となった今でも、そのお転婆ぶりは変わらず。唯の棒切は、いつしか木剣に変わり……今ではしっかりと手入された実剣になった。振り回すだけの剣術とも呼べなかったものも、日々欠かさない稽古によって洗練された剣技へと昇華されている。 そんな彼女を女性として見る者は、一部の例外を除いては居なかったが、相変わらずのガキ大将気質に彼女を親分として慕う|男《こぶん》は多かった。 そして彼女がオシャレや恋愛よりも剣の稽古に精を出すようになったのは、間違いなく父親の影響だろう。 かつて、名うての騎士だったと言うエステルの父は、どういうわけか早々に引退してしまい、妻とともに辺境の田舎へと引きこもってしまった。騎士を引退したとはいえ、まだ若く肉体的にも全盛期だった彼の剣の腕は些かの衰えもなく、魔物が跋扈する辺境の地では村人たちに大いに頼りにされた。成り行き、自警団の団長に収まるのにそれ程時間はかからなかった。 そうやって村人たちの信頼と尊敬の眼差しを受けるようになった彼に、幼いエステルが憧れを抱くのは当然の事だったのかも知れない。剣に興味を示した幼い娘に、父は喜んで自ら剣を取って稽古を付けるようになったのである。 それから僅か数年……エステルが十二を数える頃には、彼をして『もはや自分を超えた』と言わしめる程の腕前となるのだった。 以来、父から剣を教わる事もなくなったが、彼女は日々の稽古を止めることはなく只管に剣の腕を磨き続けた。さらにその頃からは村の自警団にも所属し、辺境の強力な魔物相手に実戦経験も積み重ねてきたのである。 そして、美少女天才剣士の噂は近隣の町村にまで届くようになった。その噂はやがて、彼女の村が属する辺境伯領の領主の耳にまで入る事になり、エステルに興味を示した領主は彼女を自分の屋敷に招き、噂を確かめようとするのであった…… ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 「わぁ~……立派なお家だね~、お父さん!」 エルネア王国ニーデル辺境伯領の領都、ウィフニデアにある領主の屋敷までやって来たエステルと父。 「うむ。大きいな」 二人は領主邸の大きな格子状の門の前に並んで立ち、お上りさんの如く屋敷を見上げていた。その様子は実に似たもの父娘である。 父……ジスタルは、エステルのような大きな娘がいるとは思えないくらいに若々しく、見た目から実年齢を推し測ることは難しい。元騎士、現自警団団長というだけあって、鍛えられ引き締まった長身に精悍な顔立ち。赤に近い茶褐色の髪に鳶色の瞳……容姿の点ではエステルとはあまり似ていないが、ふとした表情や所作などはそっくりだ……と言われる。 「それで、お父さん……これからどうするの?」 「俺たちは辺境伯閣下に招かれた客人と言う事だからな。約束の時間も近いはずだし、多分迎えが……あぁ、来たみたいだ」 門扉の前に立つ二人の元に、門の向こう側の敷地内から使用人らしき人物が近づいてくるのが見えた。高位貴族に仕えるだけあり、キチンとした身なりで……雰囲気的に、使用人の中でも地位の高い人物であることが窺える。 「ジスタル様、エステル様……でいらっしゃいますね?」 「ああ、その通りだ。辺境伯閣下に取り次ぎ願いたい」 高位貴族家の使用人に対しても、臆することなくジスタルは応対する。長くの田舎暮らしと言う事もあり、先程は娘と同じようにお上りさんのようになっていたが……彼は元々王都の騎士団に所属していた。貴族と接する機会もそれなりにあったので、その対応も心得ている。 「はい。ご案内するように仰せ付かっております。こちらへどうぞ」 そう言って使用人は屋敷の中に二人を招き入れるのであった。 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 「よく来てくれた。騎士ジスタルよ」 「本日は辺境伯閣下にお招きいただき、まことに光栄の至りでございます」 「えっとえっと……ありがとうございます!」 使用人に案内され、向かった先の応接室で父娘を迎えたのは……がっしりとした体格の壮年の男性。短く刈り込んだ黒髪に、顔の輪郭を縁取るように髭を生やしている。歴戦の戦士のような覇気を纏う彼こそが、ニーデル辺境伯領主……デニス=ニーデルその人だ。 彼の歓迎の言葉に、ジスタルは礼儀正しく、エステルは戸惑いながらも元気よく挨拶をする。 「ははっ!そんな畏まらなくても良いぞ。俺とお前の仲だろう」 「……では、そうさせてもらおう。あと一つ訂正だ。俺はもう騎士ではないぞ」 「悪い、ついな。しかし、やはり惜しいとは思うぞ」 どうやらこの二人、昔からの知り合いらしい。身分によらず遠慮のないやり取りからすれば、随分と親しい間柄のようだ。 「自警団の団長なんてやってるくらいだ。腕は鈍ってないのだろう?」 「どうかな?専ら相手にするのは魔物だからな。人間相手とは勝手が違う」 「確かに戦い方は違うかも知れないがな。辺境の魔物を相手にする方が余程大変だろう?」 一般的に……魔物と呼ばれる存在は、人間にとって脅威である。戦いを生業にする者であっても、相見えれば命を落す危険は常にある。ましてや、魔境に程近い辺境の地の魔物ともなれば尚更だ。ジスタルは日頃からそのような魔物から村を守っいるのである。その事実だけで彼の実力の程が窺えるだろう。 しかし。 「それはそうかもしれんが……いや、ある意味では人間相手の方が厄介かもしれんぞ。……まぁ、それはともかく、何れにしても最近では俺の出番はめっきり減ったな。若い奴らが台頭してきたから」 と、エステルの方をチラ……と見ながら彼は言う。その視線につられてデニスも彼女に注目した。 エステルは二人が話している間、所在無げに応接室の中を観察していたが、デニスが見ているのに気付くと、にへら……と曖昧な笑みを浮かべた。 「ふむ……そちらの娘が噂の?」 「どんな噂が届いているのやら……まぁ、何となく想像はできるが。俺の娘だ」 「エドナ…との?」 「それはそうだろう。そうじゃ無かったら問題だ」 エドナ、と言うのはエステルの母親である。若くしてエステルを産んだと言う事もあるが、娘と並んでも姉妹にしか見えないくらいに若々しく、ジスタル以上に年齢不詳だ。見た目もエステルとよく似ている。 「あぁ、いや……それは見ればわかるんだがな。お前たちが結婚して子供までこさえた、というのが未だにピンと来なくてなぁ……」 「……そんなにおかしいか?」 「おかしくはないが、当時は想像してなかったからな。まぁ、それは良い。今日お前たちをここに招いたのは、噂の娘……お前と話をしたかったからだ」 「はい!何をお話すればよろしいでしょうか!?」 ようやく本題に入ったのを察してハキハキと答えるエステル。その様子に気を良くしたデニスは、相好を崩して続ける。 「まず聞きたいのは……お前さんは既に父よりも強い、と聞いたのだが。それは真か?」 その問いに、エステルは困ったように眉根を寄せて、父親の方を見る。ジスタルは苦笑しながら娘の代わりに答えた。 「事実だ。コイツが十二の頃には、もう俺の実力は超えていた」 「……そうかなぁ?」 今ひとつ納得いっていないかのような様子のエステル。しかしそれは、彼女にとってジスタルが憧れの存在であるが故のものである。実際のところ彼女の実力がジスタルを超えているというのは、父だけでなく村の誰もが認めているところだ。 「にわかには信じがたいな……。あの『剣聖』ジスタルを……実の娘と言えども、十代半ばの少女が超えるなどとは」 「その名はやめてくれ。……何だ、疑ってたのか?」 「噂話の段階ではな。だが、お前自身が認めているのであれば信じざるを得ないだろう。……なぁ、エステルよ」 「はい、なんでしょうか?」 「お前の実力……確かめさせてもらえぬか?」 「?」 デニスの言葉に、コテン……と首を傾げるエステル。少し考えてから彼女は答える。 「えと……誰かと戦うって事ですか?」 「ああ、そうだ。俺の部下と模擬戦をしてもらいたい」 デニスのその提案には、ジスタルが難色を示す。 「おいおい……」 「ん?ダメなのか?」 「ダメ……と言うか。こんな年端も行かない娘に負けたら、そいつのプライドが傷つくぞ?」 「ははは!!大丈夫だ!ウチの騎士たちはそんなヤワじゃないぞ。『剣聖』を超える者が相手とあれば、挙って手合わせを願うだろうよ。……まぁ、最初は疑念を抱くだろうが、実力を示せば小さい事に拘るような奴らではない」 辺境の地の守護を担うだけあって、ニーデル辺境伯領の騎士は精鋭揃いとの呼び声が高い。気性が荒く、自身の力に絶対の自信を持つ者たちだが、実力者には敬意を払う……とはデニスの弁。 「どうだ?やってくれないか?」 「はい!やります!」 「……まぁ、本人がやる気なら俺は構わんよ」 エステルは快諾し、ジスタルも今度は反対しなかった。 剣聖の娘エステル。辺境の村で変わらぬ日々を過ごしていた彼女は、この日を境に運命が変わることになる。 ここに、彼女の物語の幕が上がるのだった。聖域の森の一画に突如として現れた巨大なドラゴン。それは王都の住民たちも目撃し、当然パニックになりかける。しかし騎士団は即座に行動を開始。非番の者も駆り出して住民の避難誘導と外壁の護りを強化すべく総動員態勢となっていた。もともと裏組織壊滅作戦のため多くの騎士や兵士たちが臨戦待機していたのは、不幸中の幸いと言えるだろうか。そして、その陣頭指揮に当たっていたのは、王の懐刀と言われている近衛騎士ディセフである。彼は次々に来る報告を受け、迅速に判断を下して各方面に指示を飛ばしていたが……「陛下はまだお戻りになられないか!?」「たった今伝令がありました!!陛下は御自らドラゴンとの戦闘の指揮をとられていると!!」「マジか……団長もいないし、俺がこっちの指揮をとらなきゃじゃねえか」もともと王や騎士団長が不在の間だけ、彼らの代行として指揮権を預かっているのがディセフである。アルドが戻ってくれば全軍の指揮権を彼に返し、代わりに自分が現場指揮に当たるつもりだった。王が最も危険な前線で戦うなど、本来ありえることではない。もともと裏組織壊滅作戦にアルドが直接出張るのも許容しがたかったのであるが、エステルを潜入させる代わりに……と言って聞かなかったのである。もっとも……そうでなくてもアルドが自ら前に出ようとするのは常のことであるし、そういう主君だからこそディセフも敬愛してるわけだが。「あれ程の敵を相手にするなら、確かに最強の駒をぶつけるべきだとは思うが……」アルドだけでなく、エステルやクレイなど……今最前線にいるはずのメンバーは、現在王都に居る中では恐らく最強の布陣であるとは彼も思っている。それでも、あれほどの敵を相手にするのは荷が勝ちすぎるだろう……とも。「せめて、あともう何人かいてくれればな……」騎士団長のディラックや、それに準ずる力を持つ者があともう少し戦闘に加わってくれなければ……と、自分も前線に向かいたいという気持ちを何とか抑えながら、彼は思わずにはいられない。だが、与り知らぬところでディセフの願い通りに力が集結しつつあることを、彼はまだ知る由もなかった。 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆アルド率いる部隊はついにドラゴンの元へ辿り着く。そして、王都と民を守るために決死の覚悟で戦いを挑もうとする彼らの前に、予想外の光景が広がっていた。「アルド陛下!
地下の古代劇場跡地から地上に出たエステルたちは、そこで信じがたい光景に遭遇した。「……こういうことか」アルドは呆然と呟く。アロンが『逃げろ』と言った意味が、今はっきりと分かった。他の者たちもあまりの事態に立ち尽くしている。彼らの視線の先には、森の木々を優に超える巨大なドラゴンの姿。王都に現れる事などないが、それがドラゴン……魔物の頂点に君臨する存在であることは誰もが一目で理解していた。その威容は見る者に畏怖の念を抱かせ、矮小な人間ごときが抗えるものではないと否が応でも理解させる。ドラゴンの全身はうっすらと光りに包まれていたが、やがてそれも消えて……閉じられていた瞳が開く。そして天に向かって首を伸ばした、高らかに咆哮を上げた。エステルとクレイも、辺境で見るよりもはるかに巨大なドラゴンを前にして驚きを露わにしていたが……「……クレイ、王都にもドラゴン出るんだね。それも、あんなにでっかいのが」「……いや。そんなはずはないんだが……」王都周辺に出没する魔物は辺境よりも弱い。彼はそう聞いていたし、それは事実のはずだ。ギデオンと魔物狩りに行って実地で経験もしてる。当のギデオンもクレイの言葉にしきりに頷いていた。だが、あれは明らかに彼らの認識と矛盾する存在だ。ならば、あれこそがアロンが言っていた『やつの仕掛け』なのだろう……アルドと同じくクレイもそう理解した。「でも、あれだけ大っきいと……お肉たくさん食べられるよね。じゅるり……」エステルのそのセリフは、彼女の母とほとんど同じものだった。あの母にしてこの娘ありだ。(こいつ……ドラゴンを食材としか見てねぇ……)そしてそのセリフに、同郷のクレイですら若干引いているが、気を取り直して彼女に現実を突きつける。「シモン村に出てくるのは精々が中位竜まで。上位竜も一度だけ現れたことがあったが……あれはどう見ても、それを超えている。下手すると、食われるのはこっちだぞ」エステルとともに竜狩りの経験がある彼にとっても、今回ばかりは分が悪いと考えているのだ。かつて一度だけシモン村近傍に上位竜が現れたときは、自警団員はもちろん戦える村人総出で事にあたり何とか撃破することが出来た。その時よりも厳しい戦いになるのは間違いないだろう。「でも、あんなの放っておいたら王都に被害が出ちゃうよ!私たちが何とかしないと!……ですよね、陛
古代の劇場跡地での戦闘後。拘束された者たちに縄を打ち、これから撤収しようとしていた矢先のことである。「……うっ!!?」他の者たちと同様に縛られていたアロンが、突然うめき声を上げ膝をついた。「どうした?傷が痛むのか?」縄を手にして彼を連行しようとしていた騎士が立ち止まって声をかけた。アロンはエステルの力で一命は取り留めたものの、完全には回復していない。なので身体のどこかが痛むのだろう……と思われたのだが。彼はそのまま地面に蹲って頭を激しく振りだした。その様子は、痛みに耐えているものとはとても思えない。「どうした?さっきみたいに、また何か……」様子がおかしいことに気付いたアルドがやって来る。そして、先ほどアロンが意識を取り戻したあと、モーゼスの名を聞いた時のことを思い出した。アルドがアロンに声をかけようとすると、それよりも前に彼は顔を上げて叫びだした。「早くここから……いや、王都から逃げろ!!あの方の…………違うっ!!|やつ《・・》の仕掛けがもうすぐ発動してしまう!!」「「「!!?」」」アロンのあまりの剣幕にアルドや周りの騎士たちは圧倒され、彼が何を言っているのか即座には理解できなかった。しかしアルドはすぐに気を取り直して聞き返す。「いったいどういう事だ?『やつ』とは?『仕掛け』とは何だ?」アロンの様子から、ただ事ではない何かが起きると言うことは理解したものの、その言葉だけではどうすれば良いのか判断できない。アルドはさらに詳しい話を聞き出そうとしたのだが……「急げ…………これ以上罪を重ねぬよう………頼む……」そう言い残してアロンは気を失ってしまった。「お、おい!!……王都から逃げろ、だと?いったい、何が起きるというんだ?」 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ディラック率いる小隊は、もう王都の目前まで迫っていた。これまで無理をさせて飛ばしてきた馬はもう限界で、いつ倒れてしまってもおかしくはないが、もう一踏ん張りすればお役御免となるだろう。しかし……「ディラック様!!?そっちは……!!」ディラックの馬が街道から外れて脇道に入ろうとするのを見て、部下の騎士が驚いて彼に声をかける。「そっちは『聖域の森』ですよ!?勝手に入ったら……」「構わん!!責任は俺が取るから黙ってついて来い!!」ディラックはその先が神殿の管理下であること
その場に突然現れた前王バルド。彼はレジーナを捕らえていた男を拳の一撃で昏倒させ彼女を救い出し、娘に危害を加えようとしていた者たちに怒りを向ける。しかし娘が戸惑うように声をかけると、それも幾分か和らいだ。「お、お父様……?」「立てるか?」「は、はい……」腕に抱いていた娘を降ろしたバルドは、ミゲルや謎の男たちを一瞥する。「ほぅ……随分と懐かしい顔がいるな。特に感慨深くも無いが」「貴様……バルド!!大人しく隠居してれば良いものを!!」「それはお前もだろう。その様子だと、また性懲りもなく悪事を働いていたようだな」バルドが後宮を廃して聖女たちを解放さえしなければ自分が追放されることもなかった……と、ミゲルは怒りをあらわにする。もちろん完全な逆恨みなのだが。「今も昔も……聖女を拐って何を企んでいる?……|よそ者《・・・》が関わっているのは予想していたが」そう言って彼は謎の集団に視線を向けた。突然の闖入者に驚き、バルドの怒りに飲まれて固まっていた男たち。その中でも、リーダーらしき男だけは落ち着いた様子で成り行きを見ていた。その彼が、バルドに語りかける。「そうか……貴殿があの『|剣《つるぎ》の王』か。色欲に溺れて落ちぶれてしまった愚王などと聞いたものだが……噂など当てにならんな」彼はどうやらバルドの名と噂を知っていたようだ。そして、その当人を目の前にして……その雰囲気と言動から噂はあくまでも噂であり、実際は侮りがたい人物である……と判断したらしい。「……いや、その噂は間違っておらぬな。守るべき者を守れなかったばかりか、多くの者を虐げた愚か者だ。だが……そんな愚か者であっても、たった一人の娘を護ることくらいは出来る」そう言って彼は腰の佩剣を抜き放つ。そして、未だ膝をついていたモーゼスに目を向けて言った。「立て。お前も過去の因縁を断ち切りたいなら自らの手で成し遂げよ」その言葉にハッ……となったモーゼスは、先ほど手放した剣を拾い上げて再び立ち上がった。彼の祈りは届き奇跡は成った。ならば……バルドが言う通り、ここから先は自らの手で過去の因縁を断ち切る。そんな決意を胸にモーゼスは剣を構えた。「くっ……!たった二人だけで何ができるか!!セルヴァン、やつらを殺せ!!」先ほどモーゼスに数的優位を覆されそうになった事実を忘れているわけではないが、ミゲルはあくま
謎の男達に捕らえられてしまったレジーナは、自分の軽率さを激しく後悔していた。モーゼスの行動を訝しみ、誰にも相談することなく一人で追跡を行った。その浅はかな行動が招いた結果がこれである。もっとも、誰にも告げずに単独行動を取った……という点においてはモーゼスも同じだ。二人とも、自分自身の手で何とかしたいという焦りにも似た気持ちが先走ってしまったのである。「モーゼス、剣を捨てよ。あの小娘が何者かは知らぬが、見捨てるわけにはいくまい。お前は、仮にも聖職者だろう?」「……どの口が言う」ミゲルは勝ち誇ったように命じ、モーゼスは苦々しく悪態をつきながらも言われたとおりに剣を手放した。「モーゼスさん!!」レジーナが悲痛な叫びを上げる。首筋に当てられた短剣も無視して彼女は飛び出そうとするが、男の一人が彼女の腕を捕らえて後ろ手に捻り上げた。「あぅっ!?」「よせ!!乱暴するな!!…………私はどうなっても構いませんが、彼女の身の安全は保証してください」既に覚悟を決めている彼はミゲルに嘆願する。彼らが大人しくレジーナを解放してくれる可能性は低いかもしれないが、せめてそれだけでも……と。彼にとってレジーナは、大神官ミラと共に幼い頃から面倒を見てきた大切な相手。そして、やはり大切に思っていた姉妹の……リアーナが命と引き換えに遺した娘。絶対に守らなくてはならない。(……やはり女神様は、まだ私の罪を赦してはいなかった)彼はミゲルが追放されて以来、彼の悪事に加担していたことを後悔し罪を償う道を選んだ。精神干渉を受けていた事など言い訳にせず。そして人々の心の安寧のために日々活動し、地道に努力を重ねて生きてきた。そんな彼を周りの者たちも認め、ついには大神官補佐の地位にまで至ったが……犯した罪が赦されたなどとは思っていなかった。だからこそ、今ここで報いを受ける時が来た……と。しかし、レジーナには何の罪も無い。自分のせいで彼女が巻き込まれるのは耐え難い苦痛である。それに……報いというならば、この場には更に罪深い者がいる。(女神エル=ネイアよ、私は今ここで報いを受けます。しかし、彼女だけはどうかお救い下さい。そして……願わくば、悪業深き者共に裁きの炎を!)彼は心の中で女神に祈りを捧げながら、目を瞑って両手を組み、その場に跪いた。「……どうやら観念したようだな。まあ、安心しろ。
前大神官ミゲル……かつての『事件』の首謀者。女神より祝福を賜った聖なる乙女たちを、自らの欲望のため売り渡した……神をも恐れぬ大罪人だ。その悪事は聖女エドナによって白日のもとに晒され、彼は裁きを受けてエルネア王国を追放された……はずだった。「……よく、ここが分かったな?」ミゲルは、いま目の前に対峙するモーゼスに疑問を投げかける。誰にも知られず、誰の目にも触れずに王都を脱出できたはず……と、彼は不思議に思った。モーゼスの様子を見れば、それは偶然などではなく確信を持って待ち伏せしていたであろう事も分かったのだが……そうするに至った根拠までは分からなかったのである。「想定していたよりも早くオークションが始まる……騎士団本部でそう聞いたとき、おそらくそれは陽動だと思いました。黒幕……あなたが脱出するためのね」モーゼスがそう答えるとミゲルはピクリと眉を動かすが、それ以上の反応は示さない。しかし現実に彼は今この場所にいるのであるから、その推察は正しかったと言うことだ。そして更にモーゼスは続ける。「騎士団の捜査の手が及ぼうとしている事も事前に察知したのでしょう?あなたの事だから、いずれはそうなるだろう事は最初から想定していたはず。そしてその時が来れば……組織とオークションの客を丸ごと囮にして逃げの一手を打つつもりだった。違いますか?」「……その通りだ」今度は、モーゼスの推測を肯定するミゲル。そして今度は逆に聞き返す。「だが、それで何故お前は私に剣を向ける?拾って育ててやった恩を仇で返すというのか?」「……」「誰にも告げずに一人でやって来たのは……まだ情が捨てきれないのだろう?さぁ、今からでも遅くない。その剣を捨て、私のもとに戻ってこい。そして『また共に暮らそう、息子よ』」(!……今のは……魔法?まさか……!)岩陰に隠れて二人の会話を聞いていたレジーナ。彼女はミゲルの最後の言葉に魔力が込められていたことを感じ取った。おそらくは精神干渉系だったのではないか……と考えたが、しかし具体的な効果を彼女が知る機会は訪れなかった。「無駄ですよ。もう、それは私に通用しません」事も無げにモーゼスは言う。どうやらミゲルが使ったらしき『魔法』は彼には効かなかった様子である。「……そもそも何故『洗脳』が解けているのだ。私の魔法はそう簡単には解除できぬはず」魔法が効かないこ
ウォーレンの合図によって開始されたエステルとレオンの手合せ。しかしほんの一瞬でその決着は付くことになる。開始と同時に飛び出して先制攻撃を仕掛けたのはレオン。彼が狙ったのは剣を持つエステルの手元。安全のため、分厚い革製の篭手をはめている。いかに剣聖の娘で実力もそれなりにあると聞いてはいても、婦女子に剣を向けるのには抵抗がある。なので早々に剣を弾き飛ばしてしまおうと考えたのだ。だが……!ギィンッッ!!!激しく金属音とともに勢いよく弾かれた長剣がクルクルと回転しながら宙を舞い、そして訓練場の地面に転がった。「そ、そこまでっ!!勝者エステル!!」ウォーレンがエステルの勝利を告げた。しか
辺境伯デニスの願いを聞き入れ、彼の配下の騎士と手合わせする事になったエステル。彼女はデニスの案内のもと、父ジスタルと共に領主邸から騎士団本部に併設されている訓練場へと向かった。「ここがニーデル騎士団の本部。この時間なら隊長格の奴らが訓練してるはずだ」まず騎士団本部へとやって来た一行。デニスは慣れた様子で門番の兵に労いの言葉をかけながら、父娘を連れて本部の中に入った。ジスタルは懐かしい雰囲気を感じて、目を細める。エステルは物珍しさからキョロキョロと落ち着きなく辺りを見回していた。「閣下……!態々こちらにお出でになるとは……いかがされました?」「おぉ、ウォーレンか。丁度いい。すまんが、訓
「はっ!せいっ!!やぁっ!!」色めく花々が咲き誇る庭園。そこは一見して綺羅びやかな……しかしその実、ドロドロとした愛憎渦巻く女の園。年若き王の伴侶、妃の候補となる女性が集められた後宮の一画である。そんな場所には似つかわしくない快活なかけ声が、広々とした庭園に響いていた。「はっ!ふっ!!せぇいっ!!」声の主……背中まである鮮やかな赤い髪を無造作に首の後ろで纏め、動きやすさ重視の簡素な服を着た少女は、掛け声を発しながら一心不乱に手にした木剣を振るっている。その格好はおよそ後宮住まいの女性とは思えないものだが、彼女は世話役の女官などではなく歴とした妃候補の一人である。服装に惑わされず、よ
辺境伯領の領主デニスとの面会を終えたエステルとジスタルの父娘は、領主邸を出て帰路につく。エステルはこれまで村の外に殆ど出たことがなく、精々が近隣の町に買い出しに行く程度であった。だから領都ウィフニデアにやって来たのは今回が初めてであり、到着した時と同様にキョロキョロと街の様子を珍しそうに観察しながら歩いている。「やっぱり大きな街だよね~、お父さん!王都はもっと大きいの?」ウィフニデアの街は辺境にあるとは言え、流石に領都と言うだけあってかなり大きな街である。いま彼女たちが歩いているメインストリートには石造りの高い建物が立ち並び、多くの人が行き交う賑やかな街並みは、エステルにとって大都会そ